村上春樹『パン屋再襲撃』

パン屋襲撃の話を聞かせたことについて

パン屋襲撃の話を妻に聞かせたことが正しい選択であったのかどうか、
僕にはいまもって確信が持てない。
たぶんそれは正しいとか正しくないとかいう基準では
推しはかることのできない問題だったのだろう。
つまり世の中には正しい結果をもたらす正しくない選択もあるし、
正しくない結果をもたらす正しい選択もあると言うことだ。
このような不条理性――と言って構わないと思う――を回避するには、
我々は実際には何ひとつとして選択してはいないのだ
という立場をとる必要があるし、
大体において僕はそんな風に考えて暮している。
起ったことはもう起ったことだし、
起ってないことはまだ起っていないことなのだ。

(村上春樹パン屋再襲撃』p.11より)

特殊な飢餓

特殊な飢餓とは何か?
僕はそれをひとつの映像としてここに提示することができる。
僕は小さなボートに乗って静かな洋上に浮かんでいる。
下を見下ろすと、水の中に海底火山の頂上が見える。
海面とその頂上のあいだにはそれほどの距離はないように見えるが、
しかし正確なところはわからない。
何故なら水が透明すぎて距離感がつかめないからだ。

(村上春樹パン屋再襲撃』p.14より)

我々の空腹

しかし残念ながら缶ビールもバター・クッキーも、
空から見たシナイ半島のごとき茫漠とした我々の空腹には
何の痕跡も遺さなかった。
それらはみすぼらしい風景の一部のように
窓の外を素早く通りすぎていっただけだった。

(村上春樹パン屋再襲撃』p.15より)



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