村上春樹『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド 上』

便宜的考え方

たとえば、地球が球状の物体ではなく巨大なコーヒー・テーブルであると考えたところで、
日常生活のレベルでいったいどれほどの不都合があるだろう?
もちろんこれはかなり極端な例であって、
何もかもをそんな風に自分勝手に作りかえてしまうわけではない。
しかし地球が巨大なコーヒー・テーブルであるという便宜的な考え方が、
地球が球状であることによって生ずる様々な種類の些末な問題
――たとえば引力や日付変更線や赤道といったようなたいして役に立ちそうにもないものごと――を
きれいさっぱりと排除してくれることもまた事実である。
ごく普通の生活を送っている人間にとって赤道などという問題にかかわらねばならないことが
一生のうちにいったい何度あるというのだ?

(村上春樹世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド 上』p.16より)

ソファー選びと人間性

ソファー選びにはその人間の品位がにじみ出るものだと
――またこれはたぶん偏見だと思うが――確信している。
ソファーというものは犯すことのできない確固としたひとつの世界なのだ。
しかしこれは良いソファーに座って育った人間にしかわからない。
良い本を読んで育ったり、良い音楽を聴いて育ったりするのと同じだ。
ひとつの良いソファーはもうひとつの良いソファーを生み、
悪いソファーはもうひとつの悪いソファーを生む。
(中略)
良いソファーを買うにはそれなりの見識と経験と哲学が必要なのだ。
金はかかるが、金を出せばいいというものではない。
ソファーとは何かという確固としたイメージなしには優れたソファーを手に入れることは不可能なのだ。

(村上春樹世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド 上』p.78より)

老人の頭蓋骨コレクション

まるでヴァイオリンの巨匠がストラディヴァリウスのコレクションを見まわって、
そのうちのひとつを手にとってピッチカートの具合を点検してみるような感じだった。
音だけを聞いていても、老人の頭蓋骨に対する人並みはずれた愛情が感じられた。
ひとことで頭蓋骨とっても、ほんとうにいろんな音色があるものだと私は思った。
ウィスキーのグラスをたたくようなのもあれば、巨大な植木鉢をたたくようなのもあった。
そういったそれぞれにはかつて肉と皮がついて、脳味噌が――量の差こそあれ――つまっていて、
食事のこととか性欲のこととか、そんなことに思いを巡らしていたのだ。
でも結局は何もかもが消えて、様々な種類の音だけになってしまった。
グラスとか植木鉢とか弁当箱とか鉛管とかやかんとか、そんな種類の音だ。

(村上春樹世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド 上』p.88より)

死ぬこと

私は死ぬこと自体はそんなに怖くはなかった。
ウィリアム・シェイクスピアが言っていたように、今年死ねば来年はもう死なないのだ。
考えようによっては実に簡単なことだ。
(中略)
生きることは決して容易なことではないけれど、それは私が私自身の裁量でやりくりしていることなのだ。
だからそれはそれでかまわない。
ワーロック』のヘンリー・フォンダと同じだ。
しかし死んだあとくらいは、静かにそっと寝かせておいて欲しかった。
私は大昔のエジプトの王様が死んだ後で
ピラミッドの中に閉じこもりたがった理由がよくわかるような気がした。

(村上春樹世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド 上』p.89より)

一角獣を捕らえる方法と角の意味

レオナルド・ダ・ヴィンチによれば一角獣の捕らえかたはひとつしかなくて、
それはその情欲を利用することなの。若い乙女を一角獣の前に置くと、
それは情欲が強すぎるために攻撃することを忘れて少女の膝に頭を載せ、
それで捕らえられてしまうのね。この角が意味することはわかるでしょ?

(村上春樹世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド 上』p.167より)

レオナルド・ダ・ヴィンチの出典について

レオナルド・ダ・ヴィンチは一角獣について、次のように記している:「不節制―一角獣は不節制で克己力がないため、小娘が好きで、自分の凶暴性も野生も忘れてしまう。一切の疑念などそっちのけで、坐っている小娘のところへ行き、その膝で眠ってしまう。猟師はこういう風にして一角獣をとらえる。」(『レオナルド・ダ・ヴィンチの手記、上』杉浦明平訳、岩波文庫、2002年、126頁)

だと思われる。*1

『自転車の唄』

四月の朝に
私は自転車にのって
知らない道を
森へと向った
買ったばかりの自転車
色はピンク
ハンドルもサドルも
みんなピンク
ブレーキのゴムさえ
やはりピンク


(中略)


四月の朝に
似合うのはピンク
それ以外の色は
まるでだめ
買ったばかりの自転車
靴もピンク
帽子もセーターも
みんなピンク
ズボンも下着も
やはりピンク


(中略)


道で私は
おじさんに会った
おじさんの服は
みんなブルー
ひげを剃り忘れてるみたい
その髭もブルー
まるで長い夜みたいな
深いブルー
長い長い夜は
いるもブルー


(中略)


森に行くのは
よしたがいいよ、あんた
とおじさんは言う
森のきまりは
獣たちのためのもの
それがたとえ
四月の朝であったとしても
水が逆に
流れたりはしないものだ
四月の朝にも


それでも私は
自転車で森へ向う
ピンクの自転車の上で
四月の晴れた朝に
こわいものなんて何もない
色はピンク
自転車から降りなければ
こわくない
赤でもブルーでも茶でもない
まっとうなピンク

(村上春樹世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド 上』p.378-383より)


世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド〈上〉 (新潮文庫)
村上 春樹
新潮社
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5 ダニー・ボーイ
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5 「世界の終わり」
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