村上春樹『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド 下』

音はひとしきりつづいたあとで突然とまった。
一瞬の間があり、そのあとに何千人もの老人があつまって
みんなで歯のすきまから息を吸いこんでいるような奇妙なざわめきがあたりに充ちた。

(村上春樹世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド 下』p.27より)

影と僕

「いや、君には無理だろう。俺は体を痛めてるが、君は心を痛めている。
何よりも先に君はそれを修復するべきだ。そうしないと脱出する前に二人とも駄目になっちまう。
俺は一人で考えるから、君は君自身を救うために手をつくすんだ。それがまずだいいちだ」
「たしかに僕は混乱している」と僕は地面に描かれた円に目を落としながら言った。
「君の言うとおりだ。どちらに進んでいいのかを見定めることもできない。
自分がかつてどういう人間であったのかと言うこともだ。
自己を見失った心というものがはたしてどれだけの力を持てるものなんだろう。
それもこれほど強い力と価値基準を持った町の中でだ。
冬がやってきて以来僕は自分の心に対して少しずつ自信を失い続けているんだ」
「いや、それは違うね」と影は言った。
「君は自己を見失ってはいない。
ただ記憶が巧妙に隠されているだけだ。だから君は混乱することになるんだ。
しかし君は決して間違っちゃいないたとえ記憶が失われたとしても、
心はそのあるがままの方向に進んでいくものなんだ。心というものはそれ自体が行動原理を持っている。
それがすなわち自己さ。自分の力を信じるんだ。
そうしないと君は外部の力にひっぱられてわけのわからない場所につれていかれることになる」
「努力してみるよ」と僕は言った。

(村上春樹世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド 下』p.67より)

老博士が研究を降りた理由

「『組織』と『工場』が同じ一人の人間の手によって操られていたとしたらどう?
つまり左手がものを盗み、右手がそれを守るの」
(中略)
「祖父は『組織』の中で研究を進めているうちにそのことに気づいたのよ。
結局のところ追求のためにはなんだってやるわ。
『組織』は情報所有権の保護を表向きの看板にしているけれど、そんなのは口先だけのことよ。
祖父はもし自分がこのまま研究をつづけたら事態はもっとひどいことになるだろうと予測したの。
脳を好き放題に改造し改変する技術がどんどん進んでいったら、
世界の状況や人間存在はむちゃくちゃになってしまうだろうってね。
そこには抑制と歯止めがなくちゃいけないのよ。でも『組織』にも『工場』にもそれはないわ。
だから祖父はプロジェクトを降りたの。あなたやほかの計算史の人たちには気の毒だけど、
それ以上研究を進めるわけにはいかなかったのよ。
そうすれば先に行ってもっとたくさんの犠牲者が出たはずよ。」

(村上春樹世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド 下』p.151より)

気の利いた女の子とは

彼女はにっこり笑ってほんの少し首を傾けた。
気の利いた女の子というのは三百種類くらいの返事のしかたを知っているのだ。
そして離婚経験のある三十五歳の疲れた男に対しても平等にそれを与えてくれるのだ。

(村上春樹世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド 下』p.245より)

小食の人

ウェイターが時間をかけて注文を注文票に書き込んでから行ってしまうと、
彼女はにっこり笑って私の顔を見た。
「べつに私にあわせてたくさん料理を注文したわけじゃないんでしょ?」
「本当に腹が減ってるんだ」と私は言った。「こんなに腹が減ったのは久しぶりだな」
「素敵」と彼女は言った。
「私、小食の人って信用しないの。
小食の人ってどこかべつのところでその埋めあわせをしてるんじゃないかって気がするんだけど、
どうなのかしら?」
「よくわからない」と私は言った。
「よくわからない、というのが口ぐせなのね、きっと」
「そうかもしれない」
「そうかもしれない、というのが口ぐせなのね」
私は言うことがなくなったので黙ったうなずいた。

(村上春樹世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド 下』p.266より)

なぜ離婚したのか

「どうして離婚したの?」彼女が訊いた。
「旅行するとき電車の窓側の席に座れないから」と私は言った。
「冗談でしょ?」
J・D・サリンジャーの小説にそういう科白があったんだ。高校生のときに読んだ」

(村上春樹世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド 下』p.324より)

J・D・サリンジャーの小説の該当箇所
原文

"I wish you'd get married," Mrs. Glass said, abruptly, wistfully.
(中略)
"Well, I do," she insisted. "Why don't you?"
Relaxing his stance, Zooey took a folded linen handkerchief from his hip pocket,
nipped it open, then used it to blow his nose once, twice, three times.
He put away the handkerchief, saying,
"I like to ride in trains too much.
You never get to sit next to the window any more when you're married."

J. D. Salinger『Franny and Zooey』

日本語訳

「あんたも奥さんをもらってくれたらいいのにねえ」藪から棒に、グラース夫人は、しみじみとそう言った。
(中略)
「あら、ほんとですよ」彼女は繰り返した「どうして結婚しないのかね」
ゾーイーは、楽な姿勢に戻ると、ズボンの尻ポケットから畳んだリネンのハンケチを取り出し、
さっと振ってひろげると、鼻を、一回、二回、三回、かんだ。
彼はそのハンケチをしまいながら言った。
「それはね、ぼくが汽車に乗るのが好きだからさ、結婚したらもう、窓際の席に坐れないだろう」

(サリンジャーフラニーとゾーイー』p.117より)

ラスト

降りしきる雪の中を一羽の白い鳥が南に向けて飛んでいくのが見えた。
鳥は壁を越え、雪に包まれた南の空に呑みこまれていった。
そのあとには僕が踏む雪の軋みだけが残った。

(村上春樹世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド 下』p.347より)


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村上 春樹
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