村上春樹『羊をめぐる冒険 下』

名前をつけなかった理由

「どうしてずっと猫に名前をつけてあげなかったの?」
「どうしてかな?」と僕は言った。
そして羊の紋章入りのライターで煙草に火をつけた。
「きっと名前というものが好きじゃないんだろうね。
僕は僕で、君は君で、我々は我々で、彼らは彼らで、それでいいんじゃないかって気がするんだ」

(村上春樹羊をめぐる冒険 下』p.10より)

ドルフィン・ホテルについて

「ドルフィン・ホテル」と僕は読んだ。
「どういう意味」
「いるかホテル」
「そこに泊まることにするわ」
「聞いたことがないな」
「でもそれ以外に泊まるべきホテルはないような気がするの」
僕は礼を言って電話帳をウェイターに返し、いるかホテルに電話をかけてみた。
はっきりしない声の男が電話に出て、ダブルかシングルの部屋ならあいていると言った。
ダブルとシングル以外にどんな部屋があるのか、と僕は念のために訊ねてみた。
ダブルとシングル以外にはもともと部屋はなかった。
少し頭が混乱したが、そもかくダブルを予約し、料金を訊ねてみた。
料金は僕が予想していたより四十パーセントも安かった。

(村上春樹羊をめぐる冒険 下』p.16-17より)

ドルフィン・ホテルにはない余計なもの

「なかなか良さそうなホテルじゃない」と彼女は言った。
「良さそうなホテル?」と僕は聞きかえした。
「こぢんまりとしていて、余計なものもなさそうだし」
「余計なもの」と僕は言った。
「君の言う余計なものというのはしみのついていないシーツとか、
水が洩らない洗面台とか、調整のきくエアコンとか、
やわらかいトイレット・ペーパーとか、新しい石鹸とか、
日焼けしてないカーテンとか、そういうもののことなんだろうね」
「あなたは物事の暗い面をみすぐるのよ」と彼女は笑って言った。

(村上春樹羊をめぐる冒険 下』p.18より)

やれやれ

「やれやれ」と僕は言った。
やれやれという言葉はだんだん僕の口ぐせのようになりつつある。

(村上春樹羊をめぐる冒険 下』p.36より)

ドルフィン・ホテルの名前の由来

「私がここをドルフィン・ホテルと名付けましたのも、
実はメルヴィルの『白鯨』にいるかの出てくるシーンがあったからなんです。」

(村上春樹羊をめぐる冒険 下』p.37より)

羊とのあいだの特殊な関係

Q「特殊な関係とは性行為のことであるのか?」
A「そうではありません」
Q「説明をしてほしい」
A「精神的行為であります」
Q「説明になっていない」
A「うまい言葉が見つかりませんが、交霊というのが近いかと思います」
Q「君は羊と交霊したというのか?」
A「そうであります」
Q「行方不明になった一週間、君は羊と交霊していたというのか?」
A「そうであります」
Q「それは職務逸脱行為であるとは思わないのか?」
A「羊の研究が私の職務であります」
Q「交霊は研究事項とは認められない。以後謹んでもらいたい。
そもそも貴君は東京帝国大学農学部を優秀な成績で卒業し、入省後も秀れた勤務成績を残している、
いわば将来の東亜の農政を担うべき人物である。それを認識すべきである」
A「わかりました」
Q「交霊のことは忘れたまえ。羊はただの家畜だ」
A「忘れることは不可能であります」
Q「事情を説明してもらいたい」
A「羊が私の中にいるからです」
Q「説明になっていない」
A「これ以上の説明は不可能であります」

(村上春樹羊をめぐる冒険 下』p.46-47より)

羊が体の中に入るということ

「簡単に説明すると」羊博士が言った。「羊が私の中に入ったのは、一九三五年の夏のことだ。
私は満蒙国境近くで放牧の調査中に道に迷い、偶然目についた洞窟にもぐりこんで一夜を過ごした。
夢の中に羊が現れて、私の中に入ってもいいか、と訊ねた。かまわん、と私は言った。
その時は自分ではたいしたことのように思えなかったんだ。
なにしろこれは夢だとちゃんとわかっていたしな」
(中略)
「羊が体の中に入るというのはどういった感じがするものなんでしょう?」
「特別なものはない。ただ、羊がいると感じるだけだ。
朝起きて感じるんだ、羊が俺の中にいるとな。とても自然な感じだ。」

(村上春樹羊をめぐる冒険 下』p.56-57より)

羊抜けとは

「人の体内に入ることのできる羊は不死であると考えられている。
そして羊を体内に持っている人間もまた不死なんだ。
しかし羊が逃げ出してしまえば、その不死性も失われる。全ては羊次第なんだ。
気に入れば何十年でも同じところにいるし、気にいらなければぷいと出ていく。
羊に逃げられて人々は一般に『羊抜け』と呼ばれる。つまり私のような人間のことだ」

(村上春樹羊をめぐる冒険 下』p.57-58より)

謎のトランプゲーム

暖炉の上でみつけたトランプで一人遊びをした。
十九世紀のイギリスで発明されて一時はやったものの、
あまりに複雑すぎていつのまにかすたれてしまったゲームだ。
ある数学者の計算によれば、二十五万回に一回だけ成功する確率であるらしい。
三回だけやってみたがもちろんうまくいかなかった。

(村上春樹羊をめぐる冒険 下』p.139より)

羊男の外見

羊男は頭からすっぽりと羊の皮をかぶっていた。
彼のずんぐりとした体つきはその衣裳にぴったりとあっていた。
腕と脚の部分はつぎたされた作りものだった。頭部を覆うフードもやはり作りものだったが、
そのてっぺんについた二本のくるくると巻いた角は本物だった。
フードの両側には針金で形をつけたらしい平べったいふたつの耳が水平につきだしていた。
顔の上半分を覆った皮マスクと手袋と靴下はお揃いの黒だった。
衣裳の首から股にかけてジッパーがついていて簡単に着脱できるようになっていた。
胸の部分にはやはりジッパーのついたポケットがあって、そこに煙草とマッチが入っていた。

(村上春樹羊をめぐる冒険 下』p.148より)

羊が鼠に求めたもの

「羊は君に何を求めたんだ?」
「全てだよ。何から何まで全てさ。
俺の体、俺の記憶、俺の弱さ、俺の矛盾……羊はそういうものが大好きなんだ。
奴は触手をいっぱい持っていてね、俺の耳の穴や鼻の穴にそれを突っこんで
ストローで吸うみたいにしぼりあげるんだ。そういうのって考えるだけでぞっとするだろう?」

(村上春樹羊をめぐる冒険 下』p.202より)

最後に鼠が僕にさせたこと

「最後にひとつだけ。
明日の朝九時に柱時計をあわせて、それから柱時計の裏に出ているコードを接続しておいてほしいんだ。
緑のコードと緑のコード、赤のコードと赤のコードをつなぐ。そして九時半にここを出て山を下りてほしい。
十二時にちょっとした仲間うちでのお茶の会があるんだ。いいね。」

(村上春樹羊をめぐる冒険 下』p.208より)

十二時のお茶の会

上り列車は十二時ちょうどの発車だった。
(中略)
僕はチョコレートをかじりながら発車のベルを聞いた。
ベルが鳴り終わり、列車ががたんと音を立てた時、遠い爆発音が聞こえた。

(村上春樹羊をめぐる冒険 下』p.219より)


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