村上春樹『海辺のカフカ 下』

宇宙そのものが巨大なクロネコ宅急便

「いいか、ホシノちゃん。すべての物体は移動の途中にあるんだ。
地球も時間も概念も、愛も生命も信念も、正義も悪も、すべてのものごとは液状的で過渡的なものだ。
ひとつの場所にひとつのフォルムで永遠に留まるものはない。
宇宙そのものが巨大なクロネコ宅急便なんだ。」

(村上春樹海辺のカフカ 下』p.127より)

短い受けこたえコンクール

「やれやれ、君はいつもそんな大きな荷物をかついで歩きまわっているのかい。
それじゃまるで、チャーリー・ブラウンの漫画に出てくる男の子が
肌身はなさず持っている毛布みたいじゃないか」
僕は湯を沸かしてお茶を飲む。大島さんはいつものように、
削りたての長い鉛筆を手の中でくるくるまわしている(短くなった鉛筆はどこに行くのだろう?)。
「そのリュックは君にとって、自由であることの象徴みたいなものなんだな、きっと」と大島さんは言う。
「たぶん」とぼくは言う。
「自由なるものの象徴を手にしていることは、
自由さそのものを手にしているよりも幸福なことかもしれない」
「ときには」とぼくは言う。
「ときには」と彼は反復する。
「もし世界のどこかに『短い受けこたえコンクール』みたいなのがあったら、
君はきっとぶっちぎりで優勝できるよ」
「あるいは」とぼくは言う。
「あるいは」、大島さんはあきれたように言う。

(村上春樹海辺のカフカ 下』p.189-190より)

音楽

「音楽はお耳ざわりではありませんか?」
「音楽?」と星野さんは言った。
「ああ、とてもいい音楽だ。耳ざわりなんかじゃないよ、ぜんぜん。誰が演奏しているの?」
ルービンシュタイン=ハイフェツ=フォイアマンのトリオです。
当時は『百万ドル・トリオ』と呼ばれました。まさに名人芸です。
1941年という古い録音ですが、輝きが褪せません」
「そういう感じはするよ。良いものは古びない」
「中にはもう少し構築的で古典的で剛直な『大公トリオ』を好む方もおられます。
たとえばオイストラフ・トリオとか」
「いや、俺はこれでいいと思う」と青年は言った。
「なというか――優しい感じがする」
「ありがとうございます」と店主は「百万ドル・トリオ」に成り代わって丁寧に礼を言った。

(村上春樹海辺のカフカ 下』p.210-211より)

大公トリオ

「よう、おじさん」と彼は店を出るときに店主に声をかけた。
「これなんていう音楽だっけね? さっき聞いたけど忘れちまったよ」
ベートーヴェンの『大公トリオ』です」
「太鼓トリオ?」
「いいえ、太鼓トリオではなく、大公トリオです。
この曲はベートーヴェンによってオーストリアのルドルフ大公に捧げられました。
それで正式につけられた名前というのではないのですが、
俗に『大公トリオ』という名前で呼ばれております。
ルドルフ大公は皇帝レオポルト二世の息子で、要するに皇族です。
音楽的資質に恵まれ、16歳の時からベートーヴェンの弟子になり、ピアノと音楽理論を学びました。
そしてベートーヴェンを深く尊敬することになりました。
ルドルフ大公はピアニストとしても作曲家としても特に大成はしませんでしたが、
現実的な局面では世渡りの下手なベートーヴェンに援助の手をさしのべ、
陰に日向に作曲家を助けました。
もし彼がいなかったらベートーヴェンはいっそうの苦難の道を歩んでいたことでしょう」
「世の中にはそういう人もやはり必要なんだな」

(村上春樹海辺のカフカ 下』p.212-213より)

迷宮という概念

「迷宮という概念を最初につくりだしたのは、いまわかっているかぎりでは、古代メソポタミアの人々だ。
彼らは動物の腸を――あるいはおそらく時には人間の腸を――
ひきずりだして、そのかたちで運命を占った。
そしてその複雑なかたちを賞賛した。だから迷宮のかたちの基本は腸なんだ。
つまり迷宮というものの原理は君自身の内側にある。
そしてそれは君の外側にある迷宮性と呼応している」
「メタファー」とぼくは言う。
「そうだ。相互メタファー。君の外にあるものは、君の内にあるものの投影であり、
君の内にあるものは、君の外にあるものの投影だ。
からしばしば君は、君の外にある迷宮に足を踏み入れることによって、
君自身の内にセットされた迷宮に足を踏み入れることになる。それは多くの場合とても危険なことだ」

(村上春樹海辺のカフカ 下』p.271より)

思い出

思い出はあなたの身体を内側から温めてくれます。
でもそれと同時にあなたの身体を内側から激しく切り裂いていきます。

(村上春樹海辺のカフカ 下』p.355より)

僕らはみんな、いろんな大事なものをうしないつづける

「僕らはみんな、いろんな大事なものをうしないつづける」、ベルが鳴りやんだあとで彼は言う。
「大事な機会や可能性や、取りかえしのつかない感情。それが生きることのひとつの意味だ。
でも僕らの頭の中には、たぶん頭の中だと思うんだけど、
そういうものを記憶としてとどめておくための小さな部屋がある。
きっとこの図書館の書架みたいな部屋だろう。そして僕らは自分の心の正確なありかを知るために、
その部屋のための検索カードをつくりつづけなくてはならない。
掃除をしたり、空気を入れ換えたり、花の水をかえたりすることも必要だ。
言い換えるなら、君は永遠に君自身の図書館の中で生きていくことになる」

(村上春樹海辺のカフカ 下』p.519-520より)


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1 預言って?
4 後引く世界観
3 気になる
4 生と死とその中間