村上春樹『羊をめぐる冒険 上』

ガール・フレンドについて

彼女は二十一歳で、ほっそりとした素敵な体と魅力的なほどに完璧な形をした一組の耳を持っていた。
彼女は小さな出版社のアルバイトの校正係であり、耳専門の広告モデルであり、
品の良い内輪だけで構成されたささやかなクラブに属するコール・ガールでもあった。
その三つのうちのどれが彼女の本職なのかは僕にはわからなかった。彼女にもわからなかった。

(村上春樹羊をめぐる冒険 上』p.46より)

耳の解放について

彼女は非現実的なまでに美しかった。
その美しさは僕がそれまでに目にしたこともなく、想像したこともない種類の美しさだった。
すべてが宇宙のように膨張し、そして同時に全てが厚い氷河の中に凝縮されていた。
全てが傲慢なまでに誇張され、そして同時に全てが削ぎ落とされていた。
それは僕の知る限りのあらゆる概念を超えていた。
彼女と彼女の耳は一体となり、古い一筋の光のように時の斜面を滑り落ちていった。
(中略)
何人かの客が振り向いて、我々のテーブルを放心したように眺めていた。
コーヒーのおかわりを注ぎにきたウェイターは、うまくコーヒーを注げなかった。
誰もひとことも口をきかなかった。テープデッキのリールだけがゆっくりとまわりつづけていた。

(村上春樹羊をめぐる冒険 上』p.67より)

迎えの車について

迎えの車は予告どおり四時にやってきた。鳩時計みたいに正確だった。
(中略)
その巨大な車はビルの玄関前の路上に潜水艦みたいに浮かんでいた。
つつましい一家ならボンネットの中で暮らせそうなくらい巨大な車だった。

(村上春樹羊をめぐる冒険 上』p.105より)

いとみみず宇宙について

僕が乳牛に訊ねる、「何故君はやっとこを欲しがるんだい?」。
乳牛が答える、「とても腹が減ってるんですよ」。
僕が訊ねる、「どうして腹が減ったらやっとこがいるんだい?」。
乳牛が答える、「桃の木の枝に結びつけるんですよ」。
僕が訊ねる、「どうして桃の木なんだい?」。
乳牛が答える、「だから扇風機を手放したんじゃありませんか?」。
きりがないのだ。そしてきりのないままに僕は乳牛を憎みはじめ、乳牛は僕を憎みはじめる。
それがいとみみず宇宙だ。

(村上春樹羊をめぐる冒険 上』p.110より)

奇妙な男の奇妙な話

「世界は凡庸だ。これは間違いない。
それでは世界は原初から凡庸であったのか?違う。世界の原初は混沌であって、
混沌は凡庸ではない、凡庸化が始まったのは人類が生活と生産手段を分化させてからだ。
そしてカール・マルクスプロレタリアートを設定することによってその凡庸さを固定させた。
だからこそスターリニズムはマルクシズムに直結するんだ。私はマルクスを肯定するよ。
彼は原初の混沌を記憶している数少ない天才の一人だからね。
私は同じ意味でドストエフスキーも肯定している。
しかし私はマルクシズムを認めない。あれはあまりにも凡庸だ」

(村上春樹羊をめぐる冒険 上』p.180より)


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